確かに雨が降っていたのだった



一、

確かに雨が降っていたのだった。
それは細かく、あたったものの体温を少しずつ奪う、嫌味な雨だった。
雨は私の行く手を白く曇らせた。
まるで、この先へは行くな、と忠告するように。



私は、そのような雨の中、ぬるぬると滑る線路を歩いている黒い猫を見ていた。
いや、違う。
私が、黒い猫だったのだ。



空は晴れていた。
雨が降っているにもかかわらず、だ。
青白く煌々と光る満月が、私と、足元のレールと、雨の一粒一粒を照らしていた。
それらはまるで幽霊みたいに、冷たく頼りなく揺れた。

私は、錆びついているくせに、やけに滑る線路の上を、怖気づいたように歩いていた。
なぜ怖気づいたように、と表現したのかというと、私はうつむいていたからだ。
顔をあげることができなかった。
雨と夜の闇がわだかまる前方を見据えるのが、怖かったのかもしれない。
もしくはそうでないのかもしれない。

私の、右の前足の柔らかい肉球は、小石か何かで切ったらしく、血がしたたっていた。
痛みはなかった。
線路がやけに滑るのは、したたる血が私の足を汚しているからなのかもしれなかった。
だが、歩くのにさしつかえは、ない。



月光に包まれた町並みはぼんやりとかすんでおり、いや、霧が出ているのだろうか。
私の目がおかしいのかもしれなかったが、本当のことは定かではなかった。
とにかく、私と、線路と、雨をつつむ建物の輪郭ははっきりとせず、私は、誰かが見ている夢の中に入り込んだような錯覚に陥った。

この奇妙な感覚は、錯覚でしかないのだ。きっと。

青いフィルタをかけたような視界は、線路の茶色を一段と古く、くすませてみせた。
私は、ひたひたと足音をひそめ、歩を進めるが、周囲の風景はちっとも変わらず、一瞬、自分が今進んでいるのか、静止しているのか、わからなくなった。
私、
足元にレール、
はびこった雑草、雨、月、
お化けのような建物といった配置に、みじんも変化はない。
その場景は私に、
あなたの行く道は、これしかないのですよ
と、微笑みかけているようだった。
まさか実際に、そのような暗示をしているのではない。



私は、宵闇の住処ごときこの町に、人の気配というものがまったく、欠如しているのに気がついた。
町はしんと静まり返っている。
完全なる沈黙は、私の耳を強く刺激した。
雨が降る音ですら、しないのだ。
音もしないが、においもしなかった。
どこに鼻先を向けても、何の痕跡もない。
まっさらで、油のにおいに毒されないままの空気は、不気味なほどきれいでぴんと張り詰めていた。

私はふと、歩いてきた道をふりかえった。
汚れのない空気に、私が歩いてきた痕跡がえぐられて、目に見えるような気がしたのだ。
だが、そんなことはあり得なかった。
空気中に私が存在した証拠が残るなど、なかった。
なかったのだ。

私は、再び前方を向いた。
行く先には、相変わらず恐ろしいものを潜ませていそうな、得体の知れない常闇が横たわっている。
雨水がしたたる耳を、そっとふるわせた。
しがみつくところを失った雨水は、宙に放り出され、レールの下の腐りかけた枕木に、音もなく吸い込まれていった。



しばらく歩いた。
月は大きさを変えることなく天をすべり、頼んでもいないのに私のお供を続ける。
私の黒く細い毛はびっしょりと湿り、重く垂れ下がった。
いつかは雄雄しく立っていた尻尾も、お役御免と、情けなく地面を這っている。

さっきから、耳に水が入り込んだのか、はぜるような音が聴こえる。
それは、人間が発する声に似ていた。
死んだような町に実は人がいて、実際に誰かが、私の近くで何かをつぶやいているのかもしれない。

そうだとすれば、本当に小さな声だ。
本当に、小さな泣き声。

ふいに、首筋に違和感をもった。
頭と胴のつなぎ目が、熱を持ち、うずいている。
私は立ち止まり、その部分に触れてみた。
つま先に、雨とは違った泥水のような感触がこびりついた。

現実味が流れ出し、からからに乾燥した脳みそで、私は思った。
まるで血のようだ。
いや、決してそんなことは、ない。



私は座り込んだ。
なんだかいやに疲れたのだ。
この町並みや空模様が、どうも神経にさわる。
胸の奥のほうを、針でつつかれているような気分になる。

何かが、つっかえている。
もしかしたら、この風景に、それを解く鍵はあるのだろうか。

私は考え込む。
とりとめなく、過去へ思いをめぐらそうとして、気づいたことがある。
私には記憶がないのだ。
さっきから、こうして滑るレールを歩いていた、ということしか。



突然、行く先のどこかに立っているであろう踏み切りが、そこらに充満した沈黙をつんざいた。
はじめて音が聴こえた喜びは驚きにすりかえられ、私は小さくとびあがった。
踏み切りは私の驚きなどおかまいなしに、けたたましく鳴りつづける。
ガァンガァンガァンガァンガァンガァンガァンガァン
太い棒で鍋の底を叩くような、ひどく安定を欠いていて不愉快な、荒々しい響きだった。

その音を合図にしてか、私の鼻の奥で、雨に特有の、生臭く懐かしいにおいが蠢きだした。
風景が急激に、現実味を帯びだしたのだ。
胸のつっかかりも、はっきりと形を取り出したようだった。
思い出せない記憶が、内臓の深くでとぐろを巻きだしたのだ。
なぜか、絶望的な虚しさを覚えた。

私は舌で、額から顎へ流れ落ちた水滴をぬぐった。
羊水のような温度。



いつのまにかにょっきりと、遮断機が出現していた。
踏み切りは実際に、先ほど泣いていた誰かが、あるいはこの町自体が発した合図だったのか。
わからない。
遮断機が乱暴に、ガンと音を立てて下りた。

私は座り込んだまま、ごまかしようがないくらい開いてきている、首の亀裂の存在を感じた。
肯定してはいけない。
私の本能が警告しているが、もう、どうしようもないのだ。
どうしようもない。
傷の存在はそれほどリアルだった。
ぱっくりと開いた皮膚の断面が熱を持ち、ちりちりとしたかゆみを発しながら、血を外界へと流れ出させている。

諦めたような気持ちになり、じっとうつむいていると、私は自分が呼吸をしていないことに気がついた。

なぜ気がついてしまったのだろうか。



尻の下で線路が徐々に震えだし、私がたどってきた道のもっと向こう側から、電車がやってくることを知らせた。
私は身の危険を感じ、線路をはずれ青白い町並みへ逃げ出そうと、腰をうかせようとしたのだが。

動けない。
動けないのだ。
しかし、あせりは、ない。
あせりがないことに、私はあせった。

体を揺さぶる振動が、首の裂け目をますます広げ、同時に私の脳をぐちゃぐちゃにかきまぜた。
私は混乱した。

電車のくる方向に目をやれども、それらしい影はどこにもない。
だのに遮断機は狂ったように、上がり、下がりを繰り返しているし、
ガン、ガン、ガン、ガン、
踏み切りは叫び続けている。
ガァンガァンガァンガァンガァンガァンガァンガァン

確かに私の体は、振動で揺れている。
小刻みに揺れている。
そして、雨は降っている。
満月は照っている。
建物は青白く、空は澄み、傷は裂け、空気は色付き・・・町は存在している。
私は、ここにいる。
だが、それら確かなもの全てがぼんやりと曖昧で、今にも消えそうだった。
滴る羊水を呆然と感じ取る。

“終わるのか”
“何が” “何が終わるのだ”
“そもそも、始まってなど”

言うな! 誰かが叫んだ。
私だったのかもしれない。



頭蓋骨ガガの内側ガガガガ音が暴れまわるガガ



そして町は揺れと爆音に支配された。

月光は太陽のごとく目を焼き、
幽霊ビルは醜く歪み、
雑草はしなびていたことを思い出したように枯れ、
踏み切りの音は鼓膜を破らんばかりに膨れ上がり、
遮断機は高速で上下をくりかえすあまり、見えなくなった。
雨はあられと見まごうほど大粒となり、枕木と、レールと、私の背中をえぐった。
線路は水浸しとなって柔らかく捻じ曲がり、
私は、
私は、
急速に崩れ行くものに囲まれ、とほうにくれている。

私も狂ってしまうのかもしれない。
町に飲まれ、ぐしゃぐしゃになってしまうのかもしれない。
そんなのは嫌だ。
なぜ今になって、平坦だった全てが歪みはじめるのだ。
私はもっと歩きたい。もっとここにいたい。
もっと、呼吸をしていたかった。
いたかった? 
そうだ、私は息をしていないのだ。
なぜ。
だめだ、考えをめぐらせたらいけない、だって私は、



バヅッ



次の瞬間、世界がひっくりかえった。

目の前は、かすんだなどというのではなく、真の白に包まれた。
まぶしい。
抑圧されていた記憶が、狭い脳みそで一度に、せめぎ合いだしたのだ。



耳をくすぐった小さな声は、小さなすすり泣きは、耳をすませばすますほど明確になり、諦めの悪い私を優しく諭すように、何度も言った。



なぜ死んでしまったの
雨の夜なんかに、外に出るから
首から、まっぷたつに
いやよ・・・




事実を肯定した途端に、私の首は吹っ飛び、
電車は姿を現し、私の頭と胴体を粉々にした。
そして月は破片をとびちらせて爆発し、
町は放心したように溶け崩れ、
形あるものは忘却され光の彼方へ吸い込まれてしまった。

降り注ぐ雨だけを残して。




二、

確かに雨が降っていたのだった。
何も存在し得ない、無限の白の中に。
始まりとなる種はなく、それどころか肥えた大地すらない、白の中に。

やがて、小さな終わりを告げるように、静かに、静かに。
雨は止んだ。




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