秋の雨
緑色のニットキャップをかぶったうさぎが、ぼくの横でたばこをふかしている。 このニットキャップうさぎは、ぼくが見る白昼夢のなかに、よくでてくる。 というか、白昼夢といったらこのうさぎだよな、くらいの頻度ででてくる。 それがなぜ現実に、ぼくの部屋なんかに立っているのだろう。 外は雨だ。 窓ガラスに水滴がくっついては滴り。 ぼく、それを内側から見ていると、自分が巨大なオムレツにでもなったんじゃないかって。 サッシに流れ込む雨粒がとろりとしたケチャップに見えるんだよね。 雨が降ってから窓を開けた記憶はないのだけど、部屋の空気はずっしり湿気をふくんで、肌にまとわりついてくる。 深く息を吸う。 淀んだ水のにおい。 ニットキャップうさぎがふかすたばこのにおい。 今の時刻は午後の六時。 日が短くなってきたらしい。部屋は薄暗い。 壁が、お風呂の水の色みたいだ。灰色がかった緑。 ぼくは、さっきから、布団の上にあぐらをかいてぼうっとしていた。 いつものごとく白昼夢を見ていたんだ。 こんな風に何にもすることがない日、ぼくの内側は洞窟のように水を湛えだす。 真っ暗な洞窟。 耳をすますと、ぽたん、ぽたんって水が落ちる音がきこえる。 正しく言えば、それだけしかきこえない。 そこには、ちょうど、今ぼくの部屋に充満している淀んだ水のにおいがしている。 ぼくは洞窟にあふれた水の上に立ってる。 黒い鏡みたいな水の上に。 ひんやりした、感じのよくない風が頬をなぜてゆく。 少しでも気を抜くと意識は、内側のほうへ内側のほうへひきずられていってしまうらしい。 ふと気がつくとぼくはそこにいる。 洞窟がきらいなわけじゃないけど、そこにいるとどうも、奇妙な心地がするんだよね。 カチッという鋭い音が、水音をはじきとばした。 ぼくははっと我にかえる。 しばらく、さだまらない焦点をもてあましてた。 さっきのは何の音だったんだろう。 横からもくもくと煙が流れてきて、思いついた。 ニットキャップうさぎのライターの音だ。 ぼくは、新たなたばこに火をつけたニットキャップうさぎのほうを見やった。 彼(だと思う)の足もとには五、六本、たばこの亡骸がころがっていて、それらは未練がましくくすぶって、ぷすぷす言っていた。 ニットキャップうさぎのチェシャ猫に似た口元は、休むことなく二酸化炭素と副流煙をぼくの部屋におくりだす。 ぼくは、ニットキャップうさぎがにやにやの裏でなにを考えているのか、ということを想像しようとしたのだけど、うまくいかなかった。 深い水の中みたいな部屋は、頭の回転を鈍くするのかもしれない。 雨は強さをましていく。 なんだか、夢見心地だ。 窓の外でゆらゆらゆれる木の影をみていたら、中学校に行っていたころのことを思いだした。 重たい傘を持った手が雨にぬれて、真赤になる。 頭上のビニールがふりそそぐ水滴をはじく音。 しずまりかえった住宅地を歩いていると、ぼくは、自分が金魚かなにかになった気分になったんだ。 広い広い水槽を、一匹きりで、のんびり泳いでいく金魚。 体にかかる水圧にさからうのが心地よい。 でも、すこしだけ億劫かも。 人間のかたちをした金魚は、学校と自分との距離を、進まない歩行でちぢめていく。 空という水面をあおいだ。 カラスが、金魚の行く方向をしめす矢印をつくって、飛んでいた。 ぼくの影が、まんがのコマを重ねたように、幾重にもかさなっては、消える。 カチッ。カチッ。 「ちっ。もう、ライターがつかねえ」 「・・・・・」 「お前もサ、濁った目んたましてないで、もどってこいよ。何時間そうしてんだ。布団が、お前のけつのかたちにへこんじまうぜ」 カチッ。カチッ。 ・・・・・・・・・壁が、 ・・・・・・・・・お風呂の水の色みたいだ・・・・・・・・・・ 灰色がかった緑。 カチッ。カチッ。 部屋は完全に、夜というブラックホールに包み込まれつつあったようだ。 ぼくの目が正常な位置にもどると、目の前に、ニットキャップうさぎの強面がそびえていた。 彼が唇をとんがらせたのが見えたら、ぶうと煙をふきかけられて、せきこんだ。 「どこに行っていた?」 ニットキャップうさぎは、大きな手でぼくの前髪をつかんで、言った。 まるでかみなりのごろごろのような声だった。 あいかわらず、雨はふりつづいているようだ。 「中学校の・・・・」 「噫。そうか。真赤な金魚になったお前が見えたから、いつもとはちがうなと思っていた。 そんなところに行っていたか。 まあな。こんな日には過去に返りたくなるからな。 そうしたお前の哀愁というか・・・・そんなきもちは、分からなくもないな」 ニットキャップうさぎは一気に話しおえると、ピンクのゼリービーンズそっくりの鼻をひこひこさせて、ぼくにぷいと背をむけた。 ぼくはざらざらする壁に体をもたれさせて、そのまま、座りこんだ。 この部屋、雨としけったたばこのにおいがするな・・・・。 ねむたい色の毛布に顔をおしつける。 かすかに、使っているボディソープのかおりがする。 ニットキャップうさぎをちらりと盗みみてみたらば、彼は、出窓に両手をつっぱって、外の風景を見ていた。 ぼくは、部屋がほんとうに、深い海の底に沈んでいくような感覚におそわれて、めまい。 またきこえてきそう。 内側の洞窟で、水が落ちる音が。 ぼくの内側はなぜあんなに、ふくよかなほどに、水を湛えているんだろう。 「おい。どうした」 ニットキャップうさぎの表情はもう、粘着質な闇にからみとられて、見えなかった。 ぼくは、彼であろう、即頭部あたりにかんじる気配にむかって、言ったんだ。 「ぼくにも、一本」 喉をふるわせて笑うのがきこえた後、 「未成年。いいのかよ」 毛布に顔をうずめたまま、返事がわりに手をのばす。 カチッ。 さえわたるライターの音。 内側の洞窟が遠ざかってゆく。 ニットキャップうさぎのやわらかい指先が、さしだしたぼくの二本の指の間に、新しいたばこを挟んでくれた。 ぼくは顔をあげた。 自分の指先も見えないくらい濃い黒のなかで、ゆっくり腕を動かして、くちびるにたばこをくわえた。 香りを、胸いっぱいに吸いこんだ。 たばこは、ちょっと苦くて、ハッカの味がした。 ニットキャップうさぎの真似をして、うすい膜をはきだすように、鼻と口から煙をおしだす。 まぶたを下ろしてその味をかみしめた。 こめかみが振動している。 耳の奥が、じーんとする。 何の音もきこえない。 何の気配もしない。 何のにおいもしない。 何の。 ・・・・・・・。 「ニットキャップうさぎ」 彼の名前を呼んでみた。 そこには何もいやしなかった。 カチッ、という、ライターの音も、きこえてこなかった。 真っ暗なぼくの部屋には、どうやら、ぼくしかいないみたい。 そっと目を開けた。 視界のはしっこのほうで、赤い金魚が、窓をすりぬけて出ていったように見えたけど、夢想好きのぼくのことだから、さだかじゃないね。 いつの間にか雨は止んでいて、世界は、完璧な夜をむかえていた。 戻る |