輪廻
「もう君のそばにはいられない」 きみは青ざめたバンビのような顔でぼくを見た。 きれいに彩られたくちびるが、どうして、というふうに数回、開閉された。 それでも声はでてこない。 長いまつげがふるえているので、ぼくは、とてもたいへんなことをしてしまったように思えて、きみの体をそうっとひきよせた。 「どうして行ってしまうの。いつもそうなの。みんなみんな行ってしまう」 「みんな?」 「お父さんも、お母さんも、おじいさんも、おばあさんも、前のひとも、その前のひとも、その前のその前のひとも・・・・・」 「そうなの?」 「そうなの」 やわらかい布団がきみとぼくのおもさでへっこむ。 外はきっと、よく晴れているだろう。 水道の蛇口をしめわすれたのは、きみだっけ、ぼくだっけ? すずめがベランダのパンくずをついばみにやってくる。 やさしいさえずり声が、ぼくらの耳をくすぐる。 「おんなじにおいがする」 「おんなじシャンプーを、使っているからね」 あたりまえのことをくりかえせるよろこび。 気が狂ってしまいそうな、かなしみ。 「おんなじシャンプーを、使っているからね・・・・・」 ぼくはその小さな輪廻からすがたを消すだろうって、なんとなく、さとったんだ、このにおいをかいでるうちに。 小鳥がさえずるのを、きいているうちに。 そのことをはなすと、きみは、わけがわからないというふうに眉毛をきゅっとよせて、 「あなたはいつからそんなに詩人になったの?」 と言った。 すずめがいっせいにとびたった。ぱたぱた。ああ、ねこが通る・・・・・。 「ねえ、ちょっと。きいているの?」 「きいているよ」 「どうして、行ってしまうの? なぜ、わたしをおいていくの?」 「わかんないよ、そんなこと。でもね、ただ、そう思ったんだよ。しずかに」 「こたえになっていないわ」 きみの髪をなでる。 やわらかい。 自分の手がみえて、爪がのびてるってことに気づいた。 「こたえだよ、これがこたえなんだ」 ぼくは身をおこす。 視線のさきで、白いシャツが、あわく桃色の影をつけていた。 「わからないわ。なんにもわからない」 「・・・・・理解しようとしないからさ」 「なによ。わたしが悪いって言うの?」 ひどい。ひどいわ。 きみは泣くふりをする。 以前だったら、さっきしたように、頭をなでてことをおさめようとしただろうけど。 そういうことは、もうできない。 潮時だ、そんなふうに、感じる。 もう君のそばにはいられない。 「行かないで」 「きみが気づけば。いや、気づいたことから目をそらさなければ、ぼくらはこんなふうにならなかったかもしれないんだ。 いい加減、きみは気づくべきだ。 ここの輪廻を。 ちいさな、でも、確かにまわりつづけてる輪廻を」 きみはすねたように口をとがらせる。 「輪廻がある以上、人は失われてゆく。そういうことなのね」 ぼくはおどろいて目をみひらく。 「わかっていたのか?」 「・・・・。わからないわ。感じるだけ」 「じゃあ、ぼくらはなぜ、消えてゆくんだ。ぼくらはこれから、どこにいくというんだ」 「わたしはどこにも行けないのよ」 きみはまぶたを閉じた。それに、音はない。 そうだったね。きみはどこにもいけない。 けれどきみは、気づいていた。 なのに、どうして、こういう衝動が巣食うんだろう。 もしかして、ぼくがまちがっていたのかもしれない。 すべてをきみのせいにしようとするまわりの人々こそが、きみが悟っている何かに気づくことなく、ここをでてゆくのかもしれない。 でもことは動きはじめてしまったのだ。 「もう君のそばにはいられない」 「これが最後なのね」 「うん。またどこかで会おう」 「・・・・・」 ぼくの背後でとびらが閉まる。 その瞬間、ぼくは、あたたかい輪廻からはずれ、しずかに消えていった。 きみのもとから、ぼくが、永久に失われてしまったのだった。 戻る |