口
気づくと口がなくなっていた。 いつものように平和にテレビを見ているとテレビのなかのタレントが面白いことを言いぼくは笑おうとしたのだが声がでなかった。 あごのあたりをさすってみると口がなかった。 思わず声のない悲鳴をあげた。 このままでは飢え死にしてしまうかもしれないと思うと気が気ではなかった。 ぼくは家中を探し回った。 口はすぐに見つかった。 本棚の上で歌をうたっていた。 ぼくは抗議しようとしたのだが声がでないことに気づきとまどった。 紙に言葉をかこうものにも口には目がないので読めないにちがいない。 本棚の下でうろうろしていると口がぼくに気づき言った。 「おい。ぼくがいないってのはさぞかし不便だろう」 ぼくは必死でうなずいた。 口がないのはとても不便だったのではやく帰ってきてほしかった。 口はぼくのあわてぶりをみてせせら笑った。 「いい気味だ。ぼくはきみにうらみをもっているんだからね。 毎日毎日まずいものばかり食べさせやがって。 ぼくがたべたいのは高級レストランのフルコースなのにきみはいつもちーかまとビールばかりだ」 そんな。 ぼくにはお金がないし第一そんなしゃれたところにはめったにいかなかった。 なによりちーかまとビールが好きなのだ。 そしてぼくは混乱していた。 ぼくとぼくの口との味覚がそれぞれ違うだなんてありえるんだろうか? 口は本棚の上にのったまま陽気に口笛をふきはじめた。 ぼくは冷や汗をかきながらどうするべきかを考えた。 だがあせりきった脳にはなんの案もうかんではこなかった。 ぼくはむなしくなりうつむいた。口は挑発するように言った。 「どうしたんだよ。悔しくないのか」 ぼくは居間にもどることにして口に背をむけた。 思っていなかった事態に今度は口があわてだしぼくに早口でまくしたてた。 「おい、待てよ。もっとなにか伝えることないのかよ。おーい」 ぼくは口との一方的なやりとりで疲れていたのでふりむかなかった。 口はさみしげに舌打ちをした。 それからぼくはなにも食べないまますごし風呂にはいり寝た。 目が覚めると口はもとにもどっていた。 主人がかまってくれなくてさみしくなったんだなと予想しながらぼくはくちびるを指でなでた。 戻る |