無題
きみは断崖絶壁のふちに佇んで、古びたカンテラを弱弱しく灯して、ぼんやり佇んでいる。 下では荒波が、灰色の牙をむいて、うなっているところ。 きみは、厚い布でかたく目隠しをしていて、耳からは血が流れている。 恐らくもう聴こえないのだろう。 胸には矢が突き刺さってる。足はぼろぼろで痛々しい。 きみは何も話してくれなかった。 耳が聴こえていたころは、流れてくる歌を批評して、笑っていた。 転んで、鼻血を出したりして、笑っていた。 多分きみはあの頃から、この世の不愉快さを悩んでいたのだ。 肺に送り込まれる酸素を、うとましく思っていたのだ。 木漏れ日は、記憶の中ほど輝かない。 聴こえてくる歌も、ただきみの意思を否定するものばかり。 きみは耳をふさいだ。 眼球の中で暴れまわる色彩を、あちらへ追いやった。 脳みそはズキズキ痛んだ。 考えられるすべてのことを、考えてきたから。 考えるのを怠ったやつらは、遠くのほうで、明るいところで笑っている。 頭をかかえたきみは思う。 「ぼくは、何なんだ?」「どうしてあんな風に、できないんだ?」 「ぼくもそっちに行きたい!」「もう一度、笑いたい!」 だが、目隠しを外せば、サイケデリックな色彩がきみに襲い掛かる。 傷ついた耳が、ちぎれそうに痛む。 きみはその仕打ちに堪えられない。すぐ、放り投げた布を、拾いに行くだろう。 自分を追い詰めるものに、立ち向かえるだけ立ち向かって、そして、きみは、気がついたのだ。 自分がこうなっていることに。 きみは断崖絶壁のふちに佇んで、古びたカンテラを弱弱しく灯して、ぼんやり佇んでいる。 下では荒波が、灰色の牙をむいて、うなっているところ。 だけど、叫ぶ思いが、少しでもあるならこっちにおいで。 「何で」って、「どうして」って、叫ぶ思いが、少しでもあるならこっちにおいで。 冷たい海に飛び込んで、死までの苦痛を味わう前に。 胸の奥で暴れる思いが、少しでもあるならこっちにおいで。 ぼくがいるところは、ちょうど、暗くて、何の音もないところ。 誰もいなくて湿っていて、黴で汚れているところ。 きみを抱きしめるだけの暗闇が、有り余るほど、残ってる。 きみがもし、逃げ込んできたなら、ぼくはきみに言うだろう。 「もう、休んでも、いいんだよ」 「きみがきみでいることすら、捨ててしまって、いいんだよ」 そして、あちこちについた傷に、薬を塗ってやるだろう。 疲れきったきみに毛布をかけて、まぶたをおろしてやるだろう。 きみが眠ったら、そうっと外に出て、鍵をしっかり閉めてやるだろう。 きみは、好きなだけ癒されるんだ。 優しい暗闇にあやされて。 やわらかな沈黙に撫でられて。 赤ん坊のように、無垢な幸せを、味わいたいだけ味わうんだ。 朝だけを歩いてきたきみは、無限の夜をまとう資格がある。 きみを見てきたこのぼくは、疲れ果てたきみにむかって、真っ白な旗を振ろう。 きみが優しさに気づけるように。 勇敢なきみが、ふさわしくない、悲しい最後をとげないように。 戻る |