迷宮



真っ白な空間。波のようなうねりが定期的に押し寄せては、ほつれて消えてゆく。

彼が佇んでいる。何の表情もうかべず。

からっぽだ。
彼のくちびるが動く。
うねりを指にからめとる。煙とたわむれる猫のように。



彼は黙った。聞きたいことなどなかった。彼がここに立っているのは必然なのだから。
偶然というもの、はて、あれは、運命という言葉が好きな少女がつくった、空想の産物なのではなかろうか。

自分がここに来るまでに至る過程は、十分すぎるほど承知している。
想像の余地はない。ただ空間があるだけだ。



空気はごおごおと音を立てて後ろのほうへ流れてゆく。風がふいているのだろう。彼の髪が、服が、なびいている。しかし風圧が頬を押す感触はまるでなく、奇妙な気分になる。

彼は地平線と思われる場所に目をやる。水平線、もしくは壁なのかもしれない。場所を確実にする目印などどこにもない。ここは真っ白なのだから。
しかし彼の目は目印を見つけようとさまよう。なぜ、ないと分かっているものを探しているのか、彼は分からない。
次第に心はざわめきはじめる。目的のものが見当たらず、満たされないので。



彼は、気晴らしに遠い昔を思い出してみた。しかし浮かんでくるのは現実味のない、断片的な映像に過ぎなかった。

これらは本当に自分が見てきたものなのだろうか? 彼は思った。冗談だろう? こんな面白味のない色彩の寄せ集めで、今のおれは作られているのか?

しかし確かなことといったらそれきりだった。面白味のない風景が彼を構成しているということだけが、ここにある唯一の、《紛れもない事実》だった。
ちくしょう、だからおれはこの場所に立っている。逃れられない。逃げ道はない。全て必然なのだから。分かっている。



彼は突然、忘我に襲われた。彼の自己同一性は時々、現実に恐れをなして逃亡する。そのたびに彼は、何者でもなくなった自分を感じるのだ。
彼はしばらくぼんやりした。忘我すると、腕も髪も脳の存在も、気持ち悪いくらいはっきりする。それらがついている、ぶら下がって働いているのがよく分かる。まるで彼の意識が、他人の体をのっとったかのように。

彼が感じ続けているのは違和感であった。彼が知っている、または彼を取り囲んでいる存在全てに対しての。



彼は依然黙っていた。声を出すという行為が馬鹿馬鹿しく感じられた。正しくいうのなら、声を出し、誰かに自分の意思を伝えようとする試みが。
とんでもなく無意味だ。彼は思った。口に出した途端、何もかも嘘になってしまう。たとえそれがゆるぎようのない事実であっても。

おれが何か呼びかけたとする。相手が答える。瞬間、嘘は成立する。意味は歪められる。個人をこえた時点で、事実をそのまま伝えることは不可能になる。相手の解釈が介入すれば、それはもうおれにとっての事実ではない。
おれは沈黙する。沈黙こそがおれを、雄弁に語る。



ここは何もない。

彼は歩き出した。しかし、歩いたところで何ら変化はなかった。あたりは真っ白で、ごおごおという音が渦巻いている。波がうねり、散って、消えてゆく。

進んでいるのだろうか? この足は順調に、次の目的地へ向かっているのだろうか? 彼は不安になった。いや、彼はいつでも不安だった。常に、不安があるのを意識しないだけで。
同じところで足踏みをしているのではないか? もしかしたら、狭い場所をぐるぐると回っているだけかもしれない。そう思ってから彼はふんと笑った。馬鹿馬鹿しい。ここがどれくらいの広さかも分からないのに。

彼は確信している。自身が徐々に、次の目的地へ近づいていることを。なぜなら彼はずっと昔から、このやり方で進んできたから。ここにたどり着いたのもそうだし、その前も、前の前も・・・。これでいいんだ。
彼は歩みを進める。一方、頭の中でもう一人の彼が言う。本当か? 本当にこれでいいのか? もしかして、歩きはじめた瞬間から、おれは間違っていたのではないか?
彼の確信が揺らぐ。本来なら確信という定義も不確かなものである。確信を感じたときから彼は迷っていた。彼は。



なぜ忘我というものは。歩みながら彼は思った。永遠ではないのだろう。
忘我が永遠になればおれは死ぬ。そういうことなのか? しかし、元を正せば意識という漠然としたものなど端から、ないに等しい。だとすればおれは永遠の忘我が欲しい・・・つつけば消えてしまいそうに頼りない意識など、無くしてしまいたい・・・。

彼は不確かなものが嫌いだった。沈黙を愛し、必然を信じた。のちに消えてしまうものには不条理を感じた。どうしようもなく悲しくなった。彼は悲しみたくなかった。悲しみを達観していたかった。しかし上手く出来なかった。彼は悲しむ己を見ないようになった。
のちに彼は感情を失くした。彼の住む世界は不条理に溢れていた。悲しみだけが彼の感情だったのだ。

ここはどこだ? ふいに彼は思った。あばらの内側で激しいものが暴れ回っていた。おれは誰だ? 冷や汗が噴き出した。彼は震え出した。震えながら歩いた。無感情を保つには歩むしかなかったのだ。



彼は歩みを進めた。黙々と。相変わらず沈黙しながら。
そのうち、震えはおさまり、冷や汗は引いた。彼は自身が持つ白の中に埋もれていった。

彼は彼から脱出することが不可能であることを分かり切っていた。
ここの平坦な白は彼である。見当たらない道は彼である。渦巻く空気は彼である。押し寄せる波は彼である。ここは彼なのだ。彼は無意識に理解していたが、合わせ鏡をのぞくような気分がして気味が悪くなり、分からないふりをした。
《必然》は揺るがずそこにあるのに、生きる不確かさと相反する。ああ、何という矛盾であろうか。彼が彼の不確かさを騙さない限り、彼はここから出られはしまい。
言葉を発することをせよ。助けを求めよ。確かなものなどどこにもありはしないのだ。



彼は一心不乱に歩いた。
落ち着いてから彼は思った。
想像の余地はない。ただ空間があるだけだ。




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