発車



歪む。
げんなりと立ち上るかげろうのせいで。
わたしの立つ道路が歪んでる。



肩にかけた新品のバッグがずっしりと食い込む。
本当はこんなものいらないのだ。
不必要なものを詰め込むための鞄なんか。

履きなれないパンプスにたえかねて、かかとがもうヒリヒリし始めている。
靴ずれだ。
くそっ。絆創膏なんて持ってないのに。



さびれた駅。ここも歪んでる。
蒸し暑い空気のせいでトイレの悪臭が、そこら中に充満してる。
どうしてこんなに臭いんだろう。吐き気がする。

わたしと同じ、駅にむかう人々のあごから、汗がしたたる。
ぽつん。
それは道路に小さく染みをつくる。
だけど暑さですぐに蒸発。



電車が舞い込む。
プルルルルル・・・・
鳴り響くアナウンス。電車が来たことを告げるブザー。

《ここは〜〜駅・・・〜〜駅・・・お忘れ物のございませんよう・・・・》

疲れ切った顔の人々が降りてくる。
夏の夕立のように勢いよく。

何かに耐えかねたように、重たそうなトランクを地面に下ろすおじさん。
ガシャ、という音、続けてため息。
「ふう・・・・」
おじさんはトランクに腰掛けて、汗をふいた。
闇のようなスーツと対照的な、まぶしいほど白いハンカチ。
天使の羽みたいに光ってる。
わたしはそれを見つめる。

時がチーズみたいに長く長く長く・・・・伸びる。



電車から降りる人々がスローモーションになる。
焦点があってないカメラのフレームを覗いた時のように。
甘く滲んだ埃っぽい駅のホーム。



くっきりしているのはおじさんとわたしだけ。
プルルルル・・・・
発車のベルが鳴った。



「立ち止まっていては駄目ですよ」

はっとした。

おじさんがこちらを見ている。
その顔は襟に隠れて見えない。
病的に白い肌。
うなじがじりじりする。太陽に焼かれているんだ。
おじさんはもう一度口を開いて言った。

「乗り遅れてしまいますよ」

プルルルル・・・・
わたしを急かすようにベルが鳴る。
夢うつつでそれを聴く。

「本当は、行きたくないんです」

日よけの屋根にとまっていたカラスが、飛び立った。
舞い散る黒い羽。

「ほう」

おじさんは平坦な調子で言った。

「なぜ?」

電車に乗り込む人々の残像がわたしの意識をぼんやりとさせる。
おじさん、誰?

「この電車、わたしが行きたいところには行かないって、分かってるから」

すすけた空。
こんなところには居たくない。

「では、なぜ、乗るのです」

わたしの肌は乾いている。
冷たく。
空気は、電車が発する熱で焦げるようなのに。

「行かなくてはいけないから」



プルルルル・・・・



「早く乗ってくださぁい」

車掌らしき人が言った。
はぁい、と返事をしながらふりむいて、ぎょっとした。
顔がない。
けれど、とりあえず、行かなくては。
電車を引きとめていては迷惑をかけてしまう。

わたしはおじさんに頭を下げて、開いていたドアに駆け込んだ。
扉が閉まる。
電車はゆっくりと発車した。
歪んだホームが遠ざかってゆく。

おじさんが何か言っている。

「行かなくてもいいのですよ」

口の動きから、そう言っているように見える。

「ここに残ってもいいのですよ」



涙が出そうになった。

「駄目なんです」

誰にも聞こえないようにつぶやく。

「いずれ、行かなくてはいけないんです」



そうだよ。
お前はここに残っていてはいけないんだ。




足を、規則的なリズムが揺らす。
気が狂いそうなほど長い線路が、細く、長く、電車を連れてゆく。




戻る