無題



うさぎのお面をかぶった男が、カマで草を刈っている。
金色の枯れた野原だ。

「誰もいないところに行きたいな・・・。
砂漠なんかがいいな。
寒さがきゅっと体を突き刺す夜に、一人で月を眺めるんだ」

うさぎの男は手をとめて座り込んだ。



そこに、ガスマスクの何者かが通りがかった。
先ほど絞めたらしい鵜をぶらさげている。

学校に行きたくない子どものように、ずっずっと足をひきずって歩く。
うさぎの男はそれを、「ずいぶん遅く歩くな」と思って見ていた。

鵜のくちばしには固まった血がこびり付いていた。
シュー、シュー。マスクごしに呼吸する音がする。



空はよく晴れている。
穴なしドーナツみたいな雲が、ふかっと小さく一つ、浮いている。
うさぎの男は空を眺めるとなしに眺めながら、

「空が薄く濃くグラデーションになる様子って、
言葉にするとつゎーんって感じだよな」

と思った。
無意識にカマをもてあそんでいる。

「若葉が見たいな。
大きな木がまるで濁流みたいにそよぐのは、
見ているのもいいし、音もすてきだ。
あれを聞いていると生まれ変わったようにぞうっとするよな」

うさぎの男はお面の裏の目をそうっと閉じて、
その様子を思い浮かべようとした。



そこに、金髪をツンツンと立てているパンクスが通りがかった。
やかましいラジカセを片手にぶらさげ、タバコを噛んでいる。
パンクスはピアスだらけの顔をちらっとうさぎの男にむけると、
タバコをいっそう強く噛んで通り過ぎた。

うさぎの男は立てた両足の前に腕をまわして、
指先をきゅっとにぎりながら見ていた。
パンクスがはいたぴっちりした皮のパンツが、
移動するにつれて違う方向にちらちらと光った。

「ぼくも昔はあんな格好がいけていると思っていたかもしれない」

うさぎの男はぼんやりと思った。

「はっきりと覚えてはいないけれど」



カサコソと音をたてて、うさぎ男の背後から狂人が現れた。
うさぎ男は黙って道をあけた。

狂人はつぎはぎだらけの袋に穴を開けて着ていた。
袋から何から薄汚れていた。
狂人は鼻水をたらしながら、ウーウーと意味のない声をあげて、
手を不安そうに細かく動かした。

「彼には記憶がないのかな?」

うさぎ男はちらっとそんなことを思った。
しかしそれ以上考えるのが嫌になり、すぐにやめた。

うさぎ男は狂人が現れた場所を振り返った。
枯れた草が踏み倒され、道ができていた。
道の向こうにはおだやかに波を立てる海が見えた。

狂人は再び草をかきわけて歩き出し、見えなくなった。



うさぎ男はカマで足元の短い草をプチプチとちぎった。
刃先を見つめていると、カマはずいぶん古びて、
錆びついていることに気がついた。
しかしそんなことは大した問題じゃない。
最低限草が刈れればいいのだ。

ひゅうっとぬるい風がふいて、草原がさらさらカサコソと鳴った。
海をこえてきた一羽のカモメが、ゆうがに空を泳ぎながら、優しい声で鳴いた。



ガスマスクの何者かと、パンクスが来た方向から、また一人やってきた。
ノリのきいた背広を着た大臣だった。
すっかり白髪になり、みすぼらしくなった頭をなびかせながら、
何かを抱えてひっぱってくる。

それは無機質なほほえみを浮かべた人形だった。
空いた方の手には糸でつながれたミニカーをひっぱっている。

大臣は何もかもを経験しつくしたような疲れた顔で、
よろよろとやってきた。
革靴は草や砂埃で薄汚れていた。

大臣はふいに立ち止まると、人形を愛しげに見つめた。
うさぎ男の目の前にぽとりとカードが落ちた。
免許証だった。

「あ・・・」

うさぎの男は拾い上げ、大臣にそれを渡そうとしたが、
大臣はかまわずよっこらよっこら行ってしまった。
背広がなびくたび、白いワイシャツがまぶしく光った。

うさぎの男は仕方なく免許証をポケットにしまった。



続けて赤ん坊がやってきた。
まだはいはいをしている本当の赤ん坊だ。
赤ん坊はやわらかそうな髪をふりみだし、楽しそうにはいはいしている。
おむつ以外何もつけていない。
うさぎの男はためしにカマをちらつかせてみたが、
赤ん坊は無垢に笑うだけだった。

うさぎ男は立ち上がり、赤ん坊と見詰め合った。
赤ん坊は鈴をころがすような声で笑った。
うさぎの男は何かを言いたいような気持ちになったが、
頭には何も浮かんでこなかった。
実際何も思いたくなかった。

うさぎの男は一日の何度かこんな気持ちになる。
そういう時は黙って草を刈るのだ。



うさぎの男は赤ん坊の口から何かが垂れているのを見つけた。
母乳のようだった。

「そういえば、木がとどろく音は、子宮の中の音と似ているな。
テレビを持っていた頃は、砂嵐をよく観たもんだった・・・。
いや、それを観るためにテレビを買ったんだっけ。
そうだ、あの三本アンテナのダイヤルテレビ・・・。
待てよ、ぼくは部屋に住んでいたんだっけ。
タペストリーの壁紙のあの部屋に・・・」

うさぎの男はカマを持ったまましばらく佇んだ。
それきりぷつんと考えるのをやめた。

赤ん坊の口から垂れる母乳を吸ってみたいような気持ちになったが、
思いとどまった。
あぐらをかいて座って、赤ん坊がはいはいするのを見送った。



うさぎ男はそれから、目の前の、狂人が作った道をぼんやりと見ていた。

「昔はずいぶん音楽が好きだった気がするなあ・・・。
ギターをくぐもるようにセッティングしたものだった。
一心に弾いたっけ。
それ以外は何もいらないっていうように」

パンクスがぶらさげたラジカセの残像が、
スローモーションでもう一度横切った。

「でも聞きたくもなくなってしまったんだ。
テレビも何もかも捨てて出てきたんだった?」

草原の向こう側から、波がやってくる。
草原全体が静かにうねる。

「いや・・・・。」

男は黙った。
カマを先ほどのようにもてあそびながら、草がそよぐのを聴いていた。



うさぎの男が顔をあげると、少女が立っていた。
髪の長い、白いワンピースを着た少女だ。
そんなに背も高くなく、すっくりと折れそうなふくらはぎが、
成熟していない印象を際立たせる。

少女はまぶしそうな目で男を見た。
少女の後ろの草むらから、鳥がいっせいに飛び立った。

ギイ、ギイ、ギイ・・・・。

空にまいあがる鳥の群れから少女に視線を戻すと、
いつのまにか少女のワンピースはまだらに血で染まっていた。
右手にナイフをにぎりしめて、まだうさぎの男をまぶしそうに見つめている。

うさぎの男は少女の前に立って、言った。

「さっきの赤ん坊を産んだのはあんたかい?」

少女のふっくらとした唇がぴくんと動いた。

「おれのことももう一度産みなおしてくれないかな」

男は言った。



少女はお腹に手を当てて、幼い声でつぶやいた。

「あたしは赤ん坊がお腹を蹴るのを感じたの。
そして自分が生まれる前のことを思い出した。
あのザーザーという音。テレビの砂嵐にそっくりでしょう。違う?」

「・・・・」

「それにこの草原の音も」



「あたしほとほと覚えているのが嫌になったわ。
さっき通りがかった人は、
あなたが今までなんらか関わった人たちなんでしょう。
あなたはもう何も知らないのね。
ただぼんやりと生きているのね。
泣くことも笑うこともせずに。
起こることを幸福に満ち足りて眺めている。
胎児みたいにね」

少女はナイフを放った。
地面に落ちると、ぱさりと小さな音がした。

「あなたが行く場所に連れてってくれる?
そこで私はもう一度産まれなおすから」

うさぎの男は手をさしだした。
少女はその手をにぎった。

男はカマを持ったまま、少女の手をとって、彼女が来た道を歩き出した。



草原は胎動のように二人を包み込む。
通りかかる人々も、音楽も、ナイフも道もなにもかも。



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