三匹の犬



一、路地裏の青い犬

或る雨天の沈鬱とした気配が漂う日、ぼくは裏路地なんぞを歩いておりました。
すると錆びた鉄パイプに一匹の青い犬が繋がれておりまして、ぼくはその犬に目を奪われてしまいました。

なにせその犬は、凶暴な青色をしていたのです。
よどみのない夏空よりももっと、ツンとして、下品な青でした。
ぼくがじろじろと眺め回していると、そいつは突然にこりと笑い、
「わたしのために死んでください。」
などとてんで馬鹿げたことを口走りました。
ぼくはその犬が、自らがつくり上げた白昼夢なのだということを分かっているはずなのに、なぜか、足を止めてしまいました。

青い犬はしめたといよいよ笑い、
「さあ死んでください。真赤な血を吐いて死ぬなんぞ、まったく美しくてよろしいかと。」
などとてんで馬鹿げたことを抜かしました。
ぼくはこの間、親類を早くから亡くし苦労をつんだ母親を哀れんでいたばかりでしたので、自分がこのような白昼夢をみる理由がよく分からず、混乱し始めた頭で考えをめぐらそうとすればするほど、脳はぐらぐらと回り始めました。
ああそうか、母を哀れんだのは、自らを美化して甘美な陶酔に浸るためのナルシシズムだったのではないか、という余計な思いまでもが、まるでかきまぜたコーヒーにミルクを垂らしたように渦巻き出し、回る世界はぼくの思考に従い、メリーゴーラウンドに縛り付けられた馬の如く混合し始めました。

にやけた青い犬の白昼夢が、背中にのしかかるビルディングの壁一面に散らばって、見ればその唇は皆、ぼくにこう言っているのです。
「さあ、わたしのために屍におなりなさい!」



二、表通りの赤い犬

或る晴天の伽藍とした風が吹きぬける日、ぼくは表通りなんぞを歩いておりました。
すると歪んだガードレールに一匹の赤い犬が繋がれておりまして、ぼくはその犬に目を奪われてしまいました。

なにせその犬は、穏やかな赤色をしていたのです。
たえまなく燃える炎よりももっと、ふわりとして、上品な赤でした。
ぼくがじろじろと眺め回していると、そいつは突然にこりと笑い、
「わたしのために生きてください。」
などとてんで馬鹿げたことを口走りました。
ぼくはその犬が、自らがつくり上げた白昼夢なのだということを分かっているはずなのに、なぜか、足を止めてしまいました。

赤い犬は憂いをおびて微笑み、
「さあ生きてください。手に持っている睡眠薬の瓶なんぞ、捨ててしまうのがよろしいかと。」
などとてんで馬鹿げたことを抜かしました。
ぼくはこの間、体に釘を打ち込むという自傷をしていたばかりでしたので、自分がこのような白昼夢をみる理由がよく分からず、混乱し始めた頭で考えをめぐらそうとすればするほど、脳はぐらぐらと回り始めました。
ああそうか、釘を打ち込んだのは、自らを美化して甘美な陶酔に浸るためのナルシシズムだったのではないか、という余計な思いまでもが、まるでかきまぜたコーヒーにミルクを垂らしたように渦巻き出し、回る世界はぼくの思考に従い、メリーゴーラウンドに縛り付けられた馬の如く混合し始めました。

寂しげな赤い犬の白昼夢が、両脇にそびえたつビルディングの窓一面に散らばって、見ればその唇は皆、ぼくにこう言っているのです。
「さあ、わたしのために真っ直ぐに進みなさい!」



三、何の変哲もない道の緑の犬

或る薄曇りの曖昧な空気が流れる日、ぼくは何の変哲もない道なんぞを歩いておりました。
すると道の真ん中に一匹の緑の犬が座り込んでおりました。

けれどぼくはその犬を気にもとめませんでした。
なぜって、そいつは鳴きも笑いもしなかったのですから。
体の緑は今日の空模様のようにじんぐりと濁っており、目をひくような派手さもありませんでした。
それは、ぼくがいつも遭遇するありふれた白昼夢の切れ端にすぎなかったのです。

そいつは無表情でぼくのことをじいっと見ておりました。
きゅんとも鳴かずに、吠えずに、普通の犬のようにだんまりと身動きもせず。

ぼくは歩みを止めました。
そいつの視線に、今までに出会った青と赤の白昼夢とは違った、ざらりとした手ごたえを感じたからです。
手ごたえというものがどういうものだったのか、あえて言うとするのならば、安らぎと不安をごったにしたような、おせじにも心地よいとは言えないものでした。

異様な光景でした。
世界は、かきまぜたコーヒーにミルクを垂らしたように渦巻くでもなく、メリーゴーラウンドに縛り付けられた馬の如く混合するでもなく、ただ坦々と足もとに寝そべるだけでした。いつもと同じく。
そいつは鋭い眼差しで、ぼくを見つめ続けました。
ぼくの存在の根本をゆさぶろうとしているかのように。

いつの間にかぼくは裏路地なんぞに立っておりまして、青い犬がこう言うのです。
「さあ、わたしのために屍におなりなさい!」

いつの間にかぼくは表通りなんぞに立っておりまして、赤い犬がこう言うのです。
「さあ、わたしのために真っ直ぐに進みなさい!」

ああ、ぼくは頭を抱えへなへなとしゃがみこみました。
ぼくが真実だと思ったものは全て虚構に食まれたエゴイズムに過ぎなかったのです。
ぼくはとんでもないエゴイストだったのです。
ぼくは、母に対する偏見や、自分に対する軽蔑を避けるため、もったいぶった演技をして、何もかもを逃避していたのです。

まるで、足場がえぐられるようでした。
気づいてはいけないことに気づいてしまったのですから。
自らの過ちに気づいてしまった今、ぼくはもう、もとの暮らしに戻ることはできません。
ぼくはこれから先、自分の愚かさや卑怯さを許すことはできないでしょう。
ぼくは、のぞかなくてはなりません。
知らず知らずに掘りつづけた真っ暗な深い穴を。
そこに何があるのかを、知らなければなりません。

ぼくは心細くなり、つかまるところを探しましたが、そんなものはないのです。
この目が見てきたものは、自分にとって都合よく塗り替えられた幻にすぎないのです。

恐怖がぼくを襲いました。
世界は恐ろしいものに姿を変え、いたずらに、轟き、歪み、いななきました。
青い犬と赤い犬が笑っております。

ここはどこなのでしょう。
どこだったのでしょう。
いつのまにか何の変哲もない道は消え去り、荒れ果てた平野ばかりが目の前に広がっております。
枯れた野草が頼りなく、埃臭い疾風に吹かれ、ひょろひょろと震えています。
曇り空はまむしの大群のように頭上を這い、ぼくの全身を圧迫しました。

緑の犬の白昼夢が、どこまでも続く大地一面に散らばって、見ればその唇はただ一つ、ぼくにこう言っているのです。

「どこへ行くのですか?」

もう、どこへも逃げることはできなくなりました。
ぼくは何十年ぶりに、塩辛く乾涸びた涙を一粒こぼしました。
そして頭を抱え込み、唸り、叫び、泣き続けました。鳴き続けました。



そしてぼくは一匹の銀の犬になりました。

目は漆黒に満ち溢れ、裂けて汚らしい唇はただ、ただ、この言葉を口走るばかりです。

「事は終わった。
世界は人類の見ている夢に過ぎない。
幕は焼かれ舞台は崩れ落ちる。
何も残りはしないのだ・・・。何も・・・・。」




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