紫
息が乱れる。 追われている。 空は紫色をしている。 急な階段をくだり必死で歩調を速める。 手が冷える。今日は寒い。 自分の足音だけが耳につく。おちつかない。 駅まではまだ遠い。 摩天楼をあおぐと、もったりとした雲がまるで、芋虫のように這っていった。 一本先の薄汚れた小道から黒猫がとびだす。 わたしは驚いて足をとめる。 しまった、いけない。 「一歩」がやつに追いつかれる「すき」となって宙に浮く。 やつが来る。 背中に視線を感じる。 わたしは堪えきれず走り出した。 いくつも角を曲がった。 目的地を忘れた。脳裏は真っ白だ。 黒猫がにゃあと鳴く。 なぜだろう。舞い戻ってきてしまった。 喉の奥をひっかくような笑い声がすぐ後ろでした。 思わずつばを飲む。 ゆっくりふりむくと黒々とした顔のやつがいた。 やつに目はない。 汗が頬をつたって落ちる。 鼓動が耳元でなっている。その音は加速してゆく。 やつがわたしのほうに一歩踏み出した。 わたしは音をたてずにあとじさる。 やつは笑みを浮かべたままじりじりと間をつめてゆく。 すさまじい悲鳴がしてとびのいた。 黒猫の爪がズボンにひっかかり、布地が裂けた。 かたい靴が猫の尻尾をふみつけていたのだ。 再び笑い声。 目をあげるとやつの顔がすぐそこまでせまっていた。 わたしは押し殺した叫びをあげるともつれる足で逃げ出した。 町はこんなに広かっただろうか。 歪んだ煙突がたえまなく煙を吐いている。 その横を通り抜け、青い色をした郵便ポストをかわし、幾重にも同じ家が立ち並ぶ住宅地を走りまわった。 どこにも、耳が潰れそうになるほど濃密な静寂がはびこっている。 空風のような喉笛が耳障りな音をたてる。 空を舞う煙の、油の臭いが鼻を突く。 立ち止まりあたりを見回す。 汗が頬をつたって落ちる。 鼓動が耳元でなっている。その音は加速してゆく。 緊張のあまりめまいがする。 うまく呼吸をすることができない。 ふるえる手を強く握りしめ、くちびるを噛んだ。 うすい皮膚が切れてあごを生暖かい血が流れてゆく。 十字路だった。 不安になるほど何もない十字路。 信号どころか道路標識すらない。 家々の窓は閉ざされ、そして、厚ぼったい壁のどこにも、ドアはない。 どこだ。 どこにいる。 喉の奥をひっかくような笑い声がすぐ後ろでした。 思わずつばを飲む。 ゆっくりふりむくがそこには誰もいない。 地面がわたしを中心に渦を巻いているような気がした。 わたし自身が台風の目になりまわりの風景がねじれ、ひずみ、塔のようにのびはじめる。 時間ですらも。 やつの気配ですらも。 突然踏み切りのカンカンカンカンという音がけたたましく鳴り響いた。 それは静かな住宅地のそこら中に反響しわたしの頭の回転を鈍くさせた。 体のどこかがおかしくなってしまいそうなほど大きな音だ。 両手で頭を抱え込みころげまわる。 音はわたしの全神経を狂わせようとしている。 汗が頬をつたって落ちる。 鼓動が耳元でなっている。その音は加速してゆく。 空はあいかわらず紫色をしている。 わたしの足元で黒猫が鳴く。 涎と血がいりまじったものを口から流しながら様子をうかがう。 あせばんだ指にさわる髪はぬれてじっとりと湿っていた。 わたしの足元で黒猫が鳴く。 カンカンカンカン。カンカンカンカン。カンカンカンカン。 どこだ。どこにいる・・・・・・。 カンカンカンカン。カンカンカンカン。 しかしその音はどうやらやつの笑い声らしいのだ。 いつのまにか世界は騒音であふれかえっていた。 団地の白と空の紫がまざりあいわたしの視界はすさまじいことになっていた。 奇怪な蟲が目玉いっぱいに寄生し羽を広げたかのようだ。 ひどい吐き気と頭痛がする。 わたしはふるえていた。 ははははは。 ははははは。 ははははははははははははははは。 息が乱れる。 追われている。 空は紫色をしている。 手が冷える。今日は寒い。 首筋がひやりとした。 何か鋭いものが首筋に触れている。 体がいうことをきかず動けない。 やつの白い手が目の前を横切る。 猫の金色の目が笑っている。 ばちん。 わたしの髪が切って落とされた。 やつは笑った。 わたしはふるえていた。 やつは黒い顔のままわたしの頭髪を切り刻み続けた。 紫と白がぐにぐにまわっている。 やつはやがて笑うのをやめるとわたしの背中にまたがり言った。 「何もかもお前が悪いのだ」 その瞬間ひずんだ世界に火がともりやつの気配が消えた。 火は燃え広がりやがて炎となった。 黒猫の毛に火の粉がふりそそぎそれは赤のかたまりとなった。 紫と白と赤が繁殖している。 逃げ道を探したが、もうわかっている。 わたしは逃れられないのだ。 したたる汗が熱されて乾き塩になる。 カンカンカンカン。カンカンカンカン。カンカンカンカン。 ははははは。 ははははは。 ははははははははははははははは・・・・・。 からかぜのよう のどぶえがミミザワリナお をたてル そらをマ けむりの、あぶらのにおいがはなヲ く 戻る |